「ことば」

思いは知識の倉庫で、知恵の泉です。思いは人格の顔であり、また品性の土台です。思いが「ことば」という服を着て出て行く時、事件が発生します。主もすべてを「ことば」に込められ、みことばが肉となられ、その肉がみことば(天のお父様の思い)のように生きられました。それなのにどうしてその人生を神ではないと言えるでしょうか?

しかし「ことば」で創造された世界と人間は、「ことば」で滅び終わるかも知れません。人間の生き方を見ると、「ことば」のゆえに死に、生き、出世し、徳を高め、敵をつくります。私は甚だしく卑しい人間であるにも関わらず、語るという特殊職分(祭司長)を頂きました。この職分を受けた者は、絶対に天のお父様に監督されることになります。それゆえ私は講壇から降りたら語りたくないのです。そのような私に人々は語らせます。私のことばを聞いて計算し、解釈し、曲げて、私の敵になったり、私を呪う人がいます。だから私のことばで傷つかず、計算しない子どもが好きです。聖書には、「ことば」を治めるならすべてを治めると書いてあるので、まだひとつの「ことば」も治めることのできない哀れなしもべの側にいる人々を思うと、ただ涙が出ます。

主イエス・キリストのように私たちが「ことば」を治めるその日まで、主は希望、信仰、愛を持って私たちを待って下さいます。キリストの身丈に私たちが成長するまで、あの方は長く長く待ってくださいます。

主よ、私は主の「ことば」を本当に愛します。
主よ、私は主の「ことば」を本当に慕い求めます。
私は主の「ことば」を本当に偲び口ずさみます。
私が主の者になったのは主の「ことば」のゆえです。

ウェソル(外松)テモテ朴

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