十分の一

持ち物の十のうち、一つを天のお父様に捧げることは宗教の儀式であり、祝福の声や福音の思想ではない。

福音とは、天のお父様の持ち物である十の中から、九つを私が使うことができるように許してくださっていることを言う。
これが聖書のいう十分の一、マハセルのまことの教訓である。

私は、私の十の中から一つをささげるために数えきれないくらいの努力をし、数えきれないくらいに祈る。「尊い主に対する愛を表現しなければ呪われる」という律法に、日々歪曲させている。
主が私の十分の一を受けられ、喜ばれない日もまことに多かったことだろう。それなのに喜びをもって、不完全なものとして受け入れてくださったあの方の赦しを考えるたびに、福音の波が私の霊魂に響きわたる。

福音を知りながらも、苦しまなければならない私の霊魂の悲しみを私は知りません。だから「私が主を愛することを主がご存知です。」と毎日告白します。
主はいつまでも私の力であられます。私は本当に主を愛します。

ウェソル(外松)テモテ朴

「ことば」

思いは知識の倉庫で、知恵の泉です。思いは人格の顔であり、また品性の土台です。思いが「ことば」という服を着て出て行く時、事件が発生します。主もすべてを「ことば」に込められ、みことばが肉となられ、その肉がみことば(天のお父様の思い)のように生きられました。それなのにどうしてその人生を神ではないと言えるでしょうか?

しかし「ことば」で創造された世界と人間は、「ことば」で滅び終わるかも知れません。人間の生き方を見ると、「ことば」のゆえに死に、生き、出世し、徳を高め、敵をつくります。私は甚だしく卑しい人間であるにも関わらず、語るという特殊職分(祭司長)を頂きました。この職分を受けた者は、絶対に天のお父様に監督されることになります。それゆえ私は講壇から降りたら語りたくないのです。そのような私に人々は語らせます。私のことばを聞いて計算し、解釈し、曲げて、私の敵になったり、私を呪う人がいます。だから私のことばで傷つかず、計算しない子どもが好きです。聖書には、「ことば」を治めるならすべてを治めると書いてあるので、まだひとつの「ことば」も治めることのできない哀れなしもべの側にいる人々を思うと、ただ涙が出ます。

主イエス・キリストのように私たちが「ことば」を治めるその日まで、主は希望、信仰、愛を持って私たちを待って下さいます。キリストの身丈に私たちが成長するまで、あの方は長く長く待ってくださいます。

主よ、私は主の「ことば」を本当に愛します。
主よ、私は主の「ことば」を本当に慕い求めます。
私は主の「ことば」を本当に偲び口ずさみます。
私が主の者になったのは主の「ことば」のゆえです。

ウェソル(外松)テモテ朴