ヒストリー(黙想より)

「働ける喜び」

三十余年前の夏、何の保証もないまま主の言葉に従順し足を踏み入れた日本の地。わたしに突きつけられた状況は勉強は勿論のことだが、まずは”職探し”だった。不慣れな環境と言葉のせいで仕事を見つけれず悩み彷徨った記憶が今でも生々しい。何とか見つけた仕事は皿洗い、工場でのネジ作り、塗装業等々の仕事だった。夏休みや冬休みには工場にそのままお世話になりながら仕事をしたものだった。良い仕事とは言えないが当時のわたしに与えられた仕事は自分にとってどんなに大切だったか、本当に一生懸命働いた。しかしそのように得た職場さえも神学を学ぶためには辞めなければならず、ポケットの中に一銭のお金も無い時が多かった。その当時の悲しみと惨めさをどう表現すれば伝わるだろうか。働く人々を見ると羨ましく幸せに見えた。

そんな神学校生活を送る中、主日や水曜日になると学友たちは嬉しそうに各自の奉仕教会へと向かう。わたしはというと、呼んでくれる教会もなく、働く教会もなかった。そんなある日、神戸教会を通じて一つの教会を紹介された。わたしの尊い仕事場が与えられたのだ。掃除、聖書勉強、本当に夜遅くまで教会に残り働いた。その喜びを言い表す事は出来ない。何の保証もないこの世の仕事すらも喜んで働いたのに、神様が下さった仕事であるなら、飢えても感謝だし疲れても楽しい。収入といっても月に一万円程度に過ぎないが、わたしの喜びは何百万もらうよりもっと大きなものだった。

本当に不思議なことであり驚くべき経験の始まりだった。主の仕事をする事がこんなにも嬉しいものなのか。主の仕事をする事がこんなにも感謝溢れることなのか。今のわたしの聖なる働きはこの美しい御国教会で牧会をすることである。神様がわたしに下さった永遠なる仕事場、永遠に愛し働くことのできる場所。

職を探したその昔、仕事が羨ましく思えた時もあったが、今ではわたしの手に負えない程の仕事の量に追われている。主はあちこちで働けるようにわたしを祝福して下さっている。怠けることさえしなければ聖なる仕事を与えると約束して下さる。だからわたしは今も自分の十字架を背負い傲慢を捨て謙遜に生きようと頑張っている。神様が許して下さらなかったなら誰もわたしに仕事をくれはしないからだ。だからただ謙遜に、また真実に任された働きを全うしようと思う。わたしを休ませられない神様、何とかわたしを用いようとされる神様。

おお、主よ!わたしはあなたの働き人です。わたしに与えられた働きの為にこの命を尽くす覚悟です。わたしに任された働きがなかったなら自分みずからでも仕事を探すでしょう。偽りなく忠誠をもって熱心に働かせたまえ。

この世の仕事も真実と忠誠をもってしなければ誰かにそれを奪われてしまいます。主の働きがわたしの不誠実によって、わたしの怠惰によって奪われてしまうことのないよう、わたしを謙遜にさせ誠実を与えたまえ。
我が生涯、主の働きがわたしのすぐ側にあるよう祝福したまえ。

ウェソル(外松)テモテ朴